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読書録『日本ぶらりぶらり』

ちょっと前に神田の古書店街に行った時にふと手にしたのが、こちら『日本ぶらりぶらり』でした。著者は、お、おにぎりが食べたいんだな、の山下清。半ズボンにランニング姿で放浪しながら絵を描いた裸の大将くらいの知識しかなくて、頭に浮かぶイメージは芦屋雁之助、最近ではドランクドラゴンの塚ちゃんという100%テレビドラマからのインプットしかなかったのですが、今回彼の生い立ちをあらためて知ってみると、なんて純粋で、おもしろみのある人だったんだろうと大変興味がわきました。ゆきぴゅーはなにより独特の文体にひかれてしまいましたの。それはのちほど。

山下清は大正11年、浅草生まれ。3歳の時に重い消化不良にかかって数ヶ月の高熱が続き、なんとか一命はとりとめたものの、軽い言語障害となりそれが知的障害へとつながってしまいました。それが原因で少年時代はいじめられるようになり、温厚な性格も時々暴力沙汰を起こすまでに。ついには千葉にある養護施設『八幡学園』に入ることになります。その八幡学園ではじめた“ちぎり絵”がその後の人生を変えました。

18歳になった頃、風呂敷包みひとつ持って突然学園から姿を消します。それが初めての放浪であり、その後も幾度となく繰り返して結局35歳までその“病気”は続きました。きまって春になるとフラ~っとどこかへ行ってしまうんだそうです。長いときは3年も消息を絶っていたこともあったそうですわ。通信網の発達した今ではちょっと考えられないですわよね。作品が注目され始め、展覧会も各地で開かれて「日本のゴッホ」と言われ有名になっていくにつれて、気ままな放浪は出来なくなっていったようです。

ゆきぴゅーがひかれた文体の話に戻りますと、彼の書く文章というのは句読点がまったくなく、「ので、ので」が延々と続いて、あるところで突然切れるんだそうです。例えば「今年の夏は仙台に行ったのでそこでは七夕まつりがあったので私はそれをみたことがなかったので宿のおじさんにそれはどこで見られるのですかと聞いたらこの道をまっすぐ行けばいいと教えてもらったので私は教えられた通りにバスに乗っていったので・・・・・」とこんな調子。で、どうやら原文のままじゃアレだってことで、式場隆三郎さんという山下清の親代わりみたいだったエライ先生が、ある程度添削したものがこの『日本ぶらりぶらり』というわけなのです。が、手を加えてあるとはいえ、

「放送局の人がパリに行きたいと思いますかと聞くので、まだいったことがないからよくわからないので、どんなところですか、兵隊の位になおすと何級ですかと聞くと、放送局の人が自分も行ったことがないのでよくわからないというので、ほかの話をしました。」


と、こんな感じなんですの。電車の中とかで読んでいる時なんか、笑いをこらえるのが大変でしたわ。っていうか、この文体、他人とは思えない親近感を覚えてしまうのは気のせいですのー???

絵を描きながら日本全国を放浪していたというのはどうやらドラマ上の設定で、彼は旅先ではほとんど絵を描かなかったそうです。とにかく記憶力が抜群によくて、代表作といわれるほとんどの作品は放浪から学園に戻ってから“思い出して”製作しているんだとか。落ち着いて作品作りができる場所は八幡学園だけだったんですのね。

「ぼくはいい景色はわりとおぼえていられるので、あとになって絵にかくことがやさしいが、人のことはあまりよく見ないので特徴がわからないので、人物を描くのはへたくそです。・・・」


昭和46年に脳出血で倒れ49歳の若さでこの世を去った山下清。花火が大好きで、夏は各地の花火大会にあわせて放浪していたようです。そんな彼の最後の言葉は「ことしの花火大会はどこに行こうかな」。ゆきぴゅーは先月、足立の花火行った時「あぁきっと彼もこうやって群衆の中で花火を楽しんでいたんだなぁ~見せてあげたいなぁ~」と思いながら鑑賞しておりました。来年は没後40年という区切りの年。各地で展覧会が開催されるのではないかと期待していますの。有名な貼絵『長岡の花火』をぜひともこの目で観たいですわ~

放浪画家をめざすか?

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • ほー山下清さんは大正11年生まれですか。もっと昔の方と思っておりました。センテンスの長い文章は読みづらい印象がありますが、山下さんの文章はなぜか暖かいですね。ほっこりします。「長岡の花火」テレビで見たことがあります。実物見てみたいです。

  • 熊子さんへ

    >「長岡の花火」テレビで見たことがあります。実物見てみたいです。

    そうですわねー。
    来年は回顧展みたいな大きなものがあるんじゃないかと思いますの。

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